ノースロンドン郊外のコックフォスターズ駅に降り立つと、ロンドン中心部の喧騒がはるか遠い国のことのように感じられる。ソーホーから地下鉄に揺られること約1時間——趣のある街並みを前に、私はピカデリー線の終点というよりも、のどかな田園地方を訪れたような気分になった。あたり一面に青々とした芝生が広がっている。そこは鼻につく都会の排気ガスのにおいとは無縁の世界だった。
バリー・ライギット、自身のアトリエにて
私がコックフォスターズを訪れたのはほかでもない、コンテンポラリーアーティストのバリー・ライギット(Barry Reigate)に会うためだ。ライギットとは、チキンシェッド・シアター・カンパニー(以下、チキンシェッド)の劇場で落ち合うことになっていた。チキンシェッドは、社会経済背景にかかわらず、すべての子供と若者たち(最年少の5歳児から、最年長の20代前半の若者まで)に芸術に没入できる機会を与えるという理念のもと、50年近く前に設立されたインクルーシブ(包括的)なユースシアターとして知られる。
しばらく前からライギットは、チキンシェッドのマネージング・ディレクター、ルイーズ・ペリー(Louise Perry)とともに仕事をしている。劇場にて、ライギットが10年以上前に考案した「パトリック」というキャラクターを軸とした一連のワークショップを開催しているのだ。「はじめのうちは、ただ時間を潰すためにパトリックを描いていた」と、現在52歳のライギットは振り返る。夕方に娘の世話をしているときに描きはじめたのがきっかけだったという。「私はテレビを観ないので、ここ数年間ずっとパトリックを描き続けてきた。それは変な習慣というか、無意識的に絵を描くというプロセスのようなもので、思い返してみると、私にとって一種のセラピーでもあったような気がする。自分の想像力から生まれた、自分の中にあるものを再訪するというのは、まさにセラピーのような行為だったんだ」
10年以上前に描きはじめたキャラクター「パトリック」の彫刻
びっくりするくらい柔らかい体とカボチャの頭、そしてウサギの耳を持つ不思議な生き物——それがパトリックだ。まるで骸骨のようにひょろりとしていて、その手脚は、粘土のように自由自在に曲げることができる。足には、ピエロを想起させる長い靴を履いている。「パトリックを描くことで、辛い時期を乗り越えることができた」とライギットは言い、さらに続けた。「アーティストとして生計を立てるようになって以来、芸術は生きるための手段になってしまった。生活がかかっているというプレッシャーによって、何かをつくるという行為の本質が変わってしまった。パトリックを描くことは、私なりのリラックス方法だったんだ」
絵画と彫刻を専門とするライギットは、ポップカルチャーを想起させる大胆なモチーフと、ダークなユーモアとの間をしばしば行ったり来たりするような作品を世に送り出してきた。生まれはロンドンで、1990年代のほとんどをロンドン南東部の芸術大学、キャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツと、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジでの学業に費やした。ユーモラスな構図に漫画の要素を取り入れることの多い彼の作品は、これまでにセクシュアリティや人種、さらには社会階層といったテーマに言及してきた。これらの作品は、テート・ブリテンとサーチ・ギャラリーで展示されたこともある。
時は流れ、パトリックの絵も増えていった。家族や愛する人たちの励ましもあり、ライギットはこの不思議な生き物が主人公の物語を紡ぎはじめた。2021年の終わりには、映画監督・脚本家のサイモン・アバウドと二人三脚で物語づくりに取り掛かった。週に1度、1時間ほど会って話をする、という日々が1年ほど続いた。「サイモンのおかげで、私は自分の無意識の世界を掘り下げることができた」とライギットは語る。「ふたりで椅子に座り、『パトリックは別の惑星から来たのか? 彼は宇宙人なのか?』のようなことを議論した。しばらくしてから、『いい加減、正直に認めたらどうだ? パトリックが私の想像力から生まれたものだということを』と思うようになったんだ」
バリー・ライギットとチキンシェッドのマネージング・ディレクターを務めるルイーズ・ペリー
パトリックの物語の舞台は、ディストピア風の社会——都会の住人たちがスマホにかじりつきながら日々を送っている姿は、現代の私たちとまるで変わらない。この世界で暮らす子供たちは、本物の教師ではなく、タブレットを相手に勉強をしている。ある日、ブライオニーという少女が絵を描くことにうんざりし、創作を辞めてしまう。そのせいで、ブライオニーの想像力から生まれたパトリックの体がバラバラになりはじめる。取れてしまった腕や脚をセロハンテープでくっつけると、パトリックはブライオニーの想像力を救出するためにロンドンへと向かう。そこでふたりは大冒険に繰り出すのだ。
「バリーは、パトリックをつなぎとめているのは想像力だと言っていました。こうしたコンセプトは、私たちのところに来てくれる子供や若者の共感を誘います」とペリーは言い、「さまざまな“かけら”が自分を形づくっていることや、必ずしも他人が期待するような外見をしている必要がないこと、いつも誰かの期待に応えなくてもいいという考え方が、この子たちの心に刺さるのです」と言葉を添えた。
チキンシェッド専属の子供劇場に毎週参加しているメンバーは、およそ650名いるという。ここでは、人種やジェンダー、能力、経済的背景にかかわらず、すべての子供を迎え入れるという「オープンドアポリシー」が実践されている。「私たちは、普遍的な想像力という概念についてよく話し合います。幼少期に何らかの障壁を感じずに育った人は、想像力はすべての子供に備わっているものだと考えがちですが、いまここで働いている若いメンターの中には、障壁の多い子供時代を過ごした人も少なくありません。彼らにとって想像力は、一部の人だけに許された特権なのです」とペリーは言い、さらに続けた。「子供たちの多くは、自由に想像力を羽ばたかされる機会を与えられていません。ここにいる子供たちの大半は、家族を支えたり、日々の不平等に対処したりするのに必死で、何かを想像する余裕なんてないのです」
カボチャの頭のウサギの耳が特徴のパトリック
ライギットとペリーは、チキンシェッドの理事のひとりを介して知り合った。それ以来、想像力を発揮できる場所を子供たちに提供することを目的に、パトリックを題材にしたワークショップを開催してきた。「自分の力を信じ、自分を愛すること——それがパトリックというキャラクターの本質なんだ」とライギットは語る。私が劇場を訪れたその日は、12人ほどの子供たちによるワークショップが行われていた。パトリックの物語を聞き終わると、子供たちは「優美な死骸」[数人の参加者たちが折った紙にそれぞれひとつの絵を描き、それを合成する遊び]というゲームを通じて、想像力を羽ばたかせて自分だけのキャラクターをつくるのだ。彼らの空想から生まれたキャラクターには、「サーカス・クリスマス・バッグ」や「スノー・ストロング・スイート・ロボット」といったユニークな名前がつけられた。それに加えて、キャラクターの特技も考えなければならない。個人的なお気に入りは、虹色のボディと、ヒゲをたくわえたジャガイモの頭が特徴の「気取り屋さん」。彼の特技を尋ねると、ひとりの子供が「何もしないこと!」と元気よく答えた。片方にムキムキの腕を、もう片方に雪だるまにつける木の枝のように細い腕を持つロボット風のキャラクターは、お腹の中にテレビが入っているおかげで「どんな質問にも答えられる」と、別の子供が教えてくれた。
チキンシェッドから一歩外に出ると、この子たちにはさまざまな責任がのしかかる。それでもここでは、喜びと好奇心に導かれながら、無邪気に無限の夢を思い描くことができる。チキンシェッドは、彼らが子供のままでいられる場所なのだ。
(写真左から)アトリエの椅子に座るバリー・ライギット。等身大のパトリック像と、古い段ボール箱に描かれたパトリックのスケッチに囲まれている。ライギットの後ろにあるのは「The Internet Loves Cats」というタイトルの絵画。その左にあるのは、パピエマシェの壺/チキンシェッドのワークショップに参加する子供たち/ライギットとルイーズ・ペリー
「まさにパトリックも彼らのように無邪気な存在で、自分の居場所を探しているんだ」とライギットは言い、次のように続けた。「私たちは、成長する過程で自分が社会に溶け込めるだろうか? ということを常に心配する。対するパトリックは、自分がウサギなのか、カボチャなのかもわからない、おどけた服を着た変なキャラクターで、失敗を恐れていない。何が起きても、好奇心だけに導かれて生きていくんだ。いまの時代の子供たちは、早く大人にならなければいけないというプレッシャーにさらされている。パトリックには、子供たちの冒険心を掻き立てるきっかけになってほしいと願っている」
ライギットとペリーは、チキンシェッドでのワークショップを今後も続けていくと同時に、ロンドンのすべての学校にパトリックを連れていきたいと考えている。「学校では、文化芸術活動が減るいっぽうだ。カリキュラムを見ても、こうした活動は昔よりも減っている」とライギットは指摘し、さらに続けた。「芸術は、批判的に物事を見ること——人とは違う視点で考え、自立するため、さらには自分に自信を持つための訓練なんだ。クリエイティビティとは広がること、成長すること、つながることでもある。パトリックは、冒険そのものなんだ。子供たちがこうしたことを理解しはじめてくれているのは素晴らしいことだ」
(写真左から)アトリエのバリー・ライギット/チキンシェッドのワークショップに参加する子供たち/パトリック像
2023年10月にライギットは、アーティスト主導の非営利ギャラリー兼チャリティ団体、ザ・ボム・ファクトリー・アート・ファウンデーション(The Bomb Factory Art Foundation)が運営するコヴェント・ガーデンの展示会場にて、一般の人々にパトリックをお披露目した。初期のパトリックとともに、等身大のパトリック像を展示したのだ。それだけでなく、パトリックは晴れてランニング業界デビューも果たした。ライギットと高機能ランニングシューズブランド、ハイロー・アスレティックス(Hylo Athletics)のコラボレーションにより、パトリックのポートレイト入りのオリジナルスニーカーボックスが誕生したのだ。
こうして世界に羽ばたいたパトリックだが、ライギット本人にとっては、いまでも自分だけのセラピー的な存在であることに変わりはない。「パトリックを世に送り出すという決心は、私にとってはカタルシスのようなもの——そのせいで、不安でいっぱいだった。人前に出るときは、きっと誰もがそう感じるのかもしれない。私は、自分を解放するためにパトリックを外の世界に連れ出したんだ」
10+ 6号「VISIONARY, WOMEN, REVOLUTION」掲載記事
インクと筆によるパトリックのスケッチ。脚が粘土のように曲がっている。パトリックを描いた一連のスケッチは、ライギット本人によってアニメーション化される予定。
TEN GALLERY
BARRY REIGATE: SMASHING PUMPKIN
Text PAUL TONER
Portraits JOSHUA TARN
Artwork BARRY REIGATE