フセイン・チャラヤンを取材するにあたって本誌は、デザイナーとしての人生を定義づけた10のファッションショーを選んでもらった。自身の名を冠したブランドのデザイナーとして約30年にわたって数多くのファッションショーを手がけてきたチャラヤンにとって、これは簡単なことではないはず。1990年代半ばから2000年代初頭にかけてのロンドンファッションの黄金時代の最前線で活躍してきたチャラヤンは、誰も見たことのないようなコレクションを発表し、世間を驚かせてきた。
不況の真っただ中にセントラル・セント・マーチンズ美術大学(CSM)を卒業した若い世代のデザイナーたちは、1990年代のロンドンのエネルギーと野心にあっという間に感化された。1990年代といえば、ブリットポップやブリットアートが台頭した時代である。さらには、1997年の総選挙によってブレア率いる労働党が圧倒的な勝利を収め、ブレア政権によって国家ブランド戦略として「クール・ブリタニア(かっこいいイギリス)」が叫ばれた時代でもあった。アレキサンダー・マックイーンの荒々しい美しさとフセイン・チャラヤンの知的なミニマリズム——ふたりのビジョンは両極端だったが、ファッションショーは服を超えた文化的体験であるべき、という信念は共通していた。
「それは、ムーブメントとまではいかないにしても、ひとつのエネルギーでした」とチャラヤンは当時を振り返り、次のように言葉を添えた。「なによりもまず、YBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)と呼ばれる若手ビジュアル・アーティストたちとの素晴らしい相乗効果がありました。サラ・ルーカスやヴォルフガング・ティルマンスなど、多くのビジュアル・アーティストや写真家と親交を結んだのもこの時期です。さらには、ビョークやマイケル・クラークといったアーティストとも仕事をしました。ジュディ・ブレイムは、私たちのショーのスタイリングを担当してくれました。あの頃は何もかもが流動的で、無限の可能性を感じました」
1997年9月1日午後8時45分——それはファッションの歴史が変わった瞬間だった。そのときチャラヤンは、イーストロンドンのアトランティス・ギャラリーにて、頭部が木製の”さや(ポッド)”のようなものに包まれたモデルと、白いマントをまとった巫女風のモデルたちに囲まれていた。次の瞬間、黒いチャドルを被った6人のモデルが白一色の舞台に入ってきた。モデルたちが一列に並ぶと、イスラム教の服装と裸体が同じ舞台を共有する光景にオーディエンスは驚き、憤った。「チャドルを使った演出は、私たちが集団としての意識に目覚め、ある種の文化的影響を受けたと感じた瞬間でした」とチャラヤンは回想する。「これまでのファッションにはないアイデアだったからでしょうか、このコレクションは、とりわけアーティストたちから注目されました。批判的な声もありましたが、このコレクションはこれまでの視点を再構築したのです」
チャラヤンのねらいは、オーディエンスに衝撃を与えることだったのだろうか? 「違います。このコレクションがどのように受け止められるかなんて、わかりませんでしたから。私はただ、直感的にやりたいと思ったのです」とチャラヤンは言う。いまの時代にこのようなショーを披露したら? と尋ねると「大変なことになってしまうでしょうね」とチャラヤンは言った。
そのショーは「Between」と名付けられ、チャラヤンはその中で、服装に関する規範や人々の信念体系を通して、私たちがどのように自分たちの領域を定義しているのかという概念を探求しようとした。これについてチャラヤンは、次のように解説する。「ポッドヘッド(さやのようなヘッドピース)はアイデンティティを排除するいっぽうで、鏡面仕上げのヘッドフレームはそのアイデンティティを映し出します。それはまた、まっさらな石版として生まれた人間が、文化的な条件付けによって別の存在意義のようなものを獲得するということでもあります。さらには、生と死といった状況に加えて、新生児としての裸の状態やチャドルによるミイラのような状態を表現しました」
チャラヤンの意図を理解することは、今日においても困難である。当時、ファッションショーのバックステージでこのような抽象的な思考を耳にすることがどれほど新鮮で、どれほど不可解だったか、想像してみてほしい。実際のところ、ほとんどの人は彼のメッセージを理解することはおろか、耳を傾ける時間もエネルギーも持ちあわせていなかった。果たしてチャラヤンはアーティストなのか? それとも視覚を使って言葉を綴る詩人なのか? そんな彼の作品を何らかのカテゴリーに分類することはできない。私たちは、ファッションを通してその芸術性に触れるしかないのだ。
フセイン・チャラヤンと彼がデザインした衣装「Gravity Fatigue」を着たダンサー、2015年サドラーズウェルズ劇場にて
PHOTOGRAPHY COURTESY OF MATTHEW STONE.RETOUCHING BY THE FORGE
幸いにも私は、ずっと前からチャラヤンという人物を見守ってきた。彼との出会いは1993年9月のこと。私たちは、CSMに入学した日に出会ったのだ。それはチャラヤンが友人の家の裏庭に卒業制作を埋めたり、実際にエアメールで送ることができる「エアメール・ドレス」を考案したりする前のことだった。トルコ系キプロス人を両親に持つ彼は、キプロスのニコシアで暮らす母親とロンドンで暮らす父親の間で育ち、8歳でイギリスの寄宿学校に入学した。独創的な彼は、CSMで美術を学ぶこともできたはずだ。これについてチャラヤンは次のように語った。「私には、ファッションの方が新しく感じられました。自分なりのアプローチで、誰も見たことのない世界を創造できると思ったのです」。当時はすでに多くの素晴らしいデザイナーがいたため、チャラヤンは自身の”声”を見つける必要があった。「日本の偉大なデザイナーたちやジョン・ガリアーノ、マルジェラ、ヘルムート・ラング……。当初から私は、ファッションを超えた他の分野とのつながりを作りたいと思っていました。それが難しいことも感じていましたが、それでもやってみようと心を決めたのです」とチャラヤンは言う。
53歳のチャラヤンは、いまも探究心を持ち続けている。飛行機や飛行ルート、地図、国境線に夢中なのだ。そんな彼の関心事は戦争や難民問題、宗教であり、民族のアイデンティティからブードゥー教の呪術まで、あらゆるものを調べないと気が済まない。たとえば、ひとつのアイデア(歴史と関連がある場合を除き、ファッションとは無関係のもの)を360度から分解する。すべてのコレクションは、彼にとっては発見と自己研鑽のための機会なのだ。「私がこのようなことをするのは、世の中には理解できないことがたくさんあるからです。自分の人生を豊かにするために、ファッション以外のことも参考にしています。要するに、自分のためにやっているのです」
チャラヤンのキャリアを決定づけた瞬間の多くは、テクノロジーによってもたらされたものである。ボタンひとつで変身する「リモコン・ドレス」は、いまも人々の記憶に新しいはずだ。実際のところ、”変身”は彼のお気に入りのテーマのひとつでもある。2007年春夏コレクションショー「One Hundred and Eleven」では、6着のアニマトロニクス(生物を模したロボットを使って撮影する技術)によるドレスが、100年以上にわたるシルエットの変容を披露した。「いままで手がけたコレクションの中でも、もっとも難しいコレクションでした。ストレスで泣いたのは、あとにも先にもこのときがはじめてです」とチャラヤンは振り返る。1895年のヴィクトリア朝のハイネックのガウンが私たちの目の前で”成長”し、ふくらはぎまで盛り上がった1910年代のルーズフィットのドレスになり、その後、1920年代の特徴的なフラッパードレスへと変化する。それが「One Hundred and Eleven」だった。「下着に組み込まれた統合技術は、世界でもっとも複雑かつ高価で、リスクの高いものでした。多くのものを順次動かす必要があったため、プログラミングをし直す前に一度しか見られないというデメリットもありました。さらにはエンジニアやプログラマーの技術力に加えて、特殊な裁断技術や多くの労力と努力を要しました。私たちは大きなリスクを冒したのです」と彼は言う。
具体的にはどのようなリスクがあったのか、と尋ねると、チャラヤンは「それについては、いままで誰にも話したことがなかったのですが……飴ガラスを使ったドレスを発表したショーを覚えていますか?」と言った。彼は、6人のモデルがステージに登場し、そのうちの3人が小槌を持って互いの繊細な飴細工のスカートを叩き割っていくショーのことを言っているのだ。「モデルのひとりは、あと2センチでバックステージのドアの角にぶつかるところでした。それを見たとき、もうこのコンセプトはおしまいだと覚悟し、こんなことは二度とやらないと誓いました」。当然ながら、その誓いは守られなかった。「なぜなら、何かをやりたいという興奮は、それが失敗することへの恐怖よりも常に強力だったからです」とチャラヤンは言った。
フセイン・チャラヤンというデザイナーを定義づけた運命的なファッションショーは何か? それは紛れもなく、「リビングルームショー」として知られる、2000年秋冬コレクションショー「After Words」である。難民が置かれている苦しい状況と、戦争で家を追われることの恐ろしさをテーマにしたこのショーは、チャラヤンにとってもっともパーソナルな作品のひとつといえるだろう。「1974年にキプロス島が分割される以前に、私の家族に何が起こったかを語る手段として、この作品を手がけました。実際、母は14歳くらいのときに故郷をあとにして、身を隠さなければならなかったのです」
ロンドンにあるサドラーズウェルズ劇場の舞台には、4脚の椅子とテーブル、薄型テレビ、オブジェでいっぱいの棚からなる、ミニマルな白いリビングルームが再現された。まずは、ごく普通の家族(母親、父親、祖母、子供)に扮した人物がステージに上がり、壇上を歩いた。続いてモデルたちが登場し、部屋にあるオブジェを手に取り、特別にデザインされたポケットに押し込んでいく。次に、別のモデルたちが椅子の張り地を剥がし、ドレス代わりにする。椅子は魔法のように折り畳まれ、スーツケースに姿を変えて持ち去られた。
最後のモデルが円形の木のコーヒーテーブルの真ん中に足を踏み入れ、テーブルを腰まで引き上げてベルトに結びつけて木のスカートを披露した瞬間は有名だ。それが終わると彼女は立ち去り、部屋には誰もいなくなった。このショーのためにチャラヤンはブルガリアの合唱団を探し出し、共演を依頼した。「ショーの前夜にプロデューサーのアレクサンドル・ドゥ・ベタックと最終フィッティングをしていたとき、彼らの歌声がスタジオの中庭に流れてきたのを覚えています。まるで祈りを捧げているような瞬間でした」と彼は言う。
2007年春夏コレクション「One Hundred and Eleven」より、変化する「アニマトロニクス・ドレス」
PHOTOGRAPHY COURTESY OF CHRIS MOORE
ランウェイで魅せた奇跡のみならず、慎ましやかでありながらも美しくてエレガントな服の強力なボキャブラリーを開発したことは、チャラヤンの大きな功績である。チャラヤンのコレクションは、パリでコレクションを発表しはじめた2001年には、すっかり豪華で洗練されたものになっていた。生地を食べる悪意に満ちた呪いから、アガサ・クリスティの名作ミステリを映画化した1974年の『オリエント急行殺人事件』に至るまで、たとえその着想源が意外なものであったとしても、その結果は実に見事だった。当時の彼のお気に入りは、リビエラ風のつばの広い帽子にビスチェとパラッツォパンツをミックスしたものだった。2010年春夏のファッションショー「Dolce Far Niente」では、自ら司会者としてステージに上がり、タキシードにウィッグという出立でマイクを持ち、チャラヤン史上もっともグラマラスと謳われたコレクションのナレーションを務めた。「カツラは、本物の髪と見間違うほどリアルでした。ずっとつけていればいいのに、とあれからずっと母親に言われ続けたくらいです」とチャラヤンは言った。
さらには、美術館で個展を開催するという栄誉に授かった最初のファッションデザイナーがチャラヤンであることも特筆に値する。ファッションデザイナーの個展というものは、かつては珍しかったが、いまでは一大ビジネスへと成長した。そのいっぽうで、”チャラヤンらしさ”なるものを決定づけた作品は、ファッションショー以外にもある。オランダのフローニンゲン美術館での初の回顧展や、自ら演出と舞台デザインを手がけたダンス『Gravity Fatigue』(サドラーズウェルズ劇場にて上演)などがそうである。このほかにもティルダ・スウィントン主演の映画『Absent Presence』でトルコ代表としてヴェネチア・ビエンナーレに参加するいっぽう、パリ、ロンドン、東京、上海、イスタンブールではミュージアムショーを開催した。
チャラヤンは、常にファッションを超越してきた。そんな彼が独創的な試金石、ひいては”聖火ランナー”のような存在として次世代から称賛されているのも不思議ではない。彼は30年もの間、アートをビジネスにしてきた。「私のようなアプローチでここまで長く生き残ってこられたことは、考えてみると、とてもワクワクしますね」とチャラヤンは話す。アートとファッションは、そのキャリアを通して常に交差してきたのだ。ファッション界での卓越した経験はもとより、チャラヤンは”売れる”限定アート作品(映画であれ彫刻であれ)を作ることができる数少ないデザイナーのひとりである。
チャラヤンは現在、ロンドンとイスタンブール、アテネ、そして自ら教鞭を執る、ドイツ最大規模の応用科学の大学があるベルリンを行き来しながら、ノマド的な生活と働き方をしている。学生を指導しているときも、アテネとイスタンブールで2024年に開催されるふたつの展覧会の準備をしているときも、韓国のアウターブランド、コロン スポーツ(Kolon Sport)とタッグを組んでダウンをデザインしているときも、その価値観と誠実さは変わらない。「この仕事をする以上は、リスクを冒してでも新しいものを生み出さなければならない、と私は常に自分に言い聞かせてきました」とチャラヤンは言う。
After Words 2000年秋冬コレクションより「テーブル・スカート」 PHOTOGRAPHY COURTESY OF CHRIS MOORE
1. BETWEEN 1998年春夏コレクション
「チャドルを使ったショーは、私たちが集団としての意識に目覚めた瞬間を表現しています。私にとってとても重要なショーであると同時に、大きなリスクを冒したのも事実です。他のコレクションを手がけているときも、もちろんワクワクしますが、このショーには広義の文化的なインパクトがあったと思います。このショーが終わってしばらくたってから、その反響が感じられました。このコレクションのどこまでもピュアな美意識が大好きです」
2. BEFORE MINUS NOW 2000年春夏コレクション
「これはテクノロジーと詩的で叙情的で軽やかなものとの興味深い融合でした。同時に、とてもパフォーマティブな印象を持っています」と、チャラヤンはファイバーグラスを使ったリモコンドレスと、メモリーワイヤーで広がるドレスを起用したコレクションについて語った。
3. AFTER WORDS 2000年秋冬コレクション
「このコレクションを選んだのは、おそらく私のコレクションの中でもっとも有名なコレクションだからです。内容としては、戦争で住む場所を追われ、全財産を持って逃げなければならないというものです。でも、オーディエンスはこうしたことを知らなくても、ステージ上で繰り広げられる変身を見て、何かを感じてくれると思います。お気に入りの瞬間は、モデルがスカートではなく、椅子の張り地を剥がしはじめるときです。でも実際は、大丈夫だろうか? 上手くいくだろうか? と、ショーの間はずっとヒヤヒヤしていました」
4. VENTRILOQUY 2001年秋冬コレクション
「飴ガラスでできたスカートを叩き割るという行為は、自身の分身を破壊するという、デジタル社会に対するメッセージでした。2000年ということで、現実はいったいどこからはじまって、どこで終わるのか? ということを考えていたのだと思います。このときは大きなリスクを冒しました。ガラスのスカートを履いていたモデルがもう少しでバックステージのドアにぶつかるところだったのです。あそこで壊れていたら、コンセプトそのものが崩壊していたでしょう」
5. MEDEA 2002年春夏コレクション
「パリで開催した初めてのファッションショーです。個人的には、パリでショーを開催することはとても名誉なことだと思っていたので、緊張しました。テーマは罵り合いと、行動と思考の関係性です。罵り合いや悪意を通して視覚的な言語を作ろうとしたのです。まるで考古学者が土の層を掘り起こしていくように、何層にも重なった服が呪いによって一枚一枚剥がれていくような見せ方にしました。故郷のキプロスには、人を破滅させたり、考えを改めさせたりする迷信がたくさんあるのです」
2007年秋冬コレクションより、スワロフスキーとのコラボレーションによる「LEDドレス」
PHOTOGRAPHY COURTESY OF RUTH HOGBEN
7. ONE HUNDRED AND ELEVEN 2007年春夏コレクション
「これまで手がけた中でももっとも難しいコレクションでした。これよりも複雑なものを取り扱ったことはないというくらいです。すべてがダメになっても、何も不思議ではありませんでした。その日は、ある外的な力に救われたような気がします。作品には、1世紀以上にわたってシルエットを変形させるよう設計された6着の「アニマトロニクス・ドレス」も含まれていました。
8. AIRBORNE 2007年秋冬コレクション
「このコレクションを通じて、天候のサイクルが肉体の生と死のサイクルとどのように類似しているかを探究したいと思いました。私はいつも天候の力に魅了されてきたので、日本のように四季が明確にある国や、季節が意味するものをたくさん調べました。1万5600個のLEDライトとクリスタルディスプレイを組み合わせたビデオドレスが2着ありました。なかでも、サムライにインスパイアされた服がお気に入りです」
9. DOLCE FAR NIENTE 2010年春夏コレクション
このコレクションショーでチャラヤンは司会者として登場し、後ろ髪をなでつけたオーダーメイドのカツラとタキシードという格好で自らショーのナレーションを行った。「一番好きなコレクションのひとつで、過去の宗教的理想とリビエラ・スタイルとの融合がテーマでした。ロジャー・ヴァディム監督の1956年の映画『素直な悪女』のブリジット・バルドーからヒントを得ています」
10. PASATIEMPO 2016年春夏コレクション
「キューバ旅行を機に、この国の”開国”をテーマにコレクションを作ってみたいと思いました。特定の文化が孤立した状況下でどのように発展してきたか、そして西洋という異なる文化に開放されることでどのように人々の行動が変化していくのかを見てみたかったのです。フィナーレでは、水が軍服のような服を溶かして、挑発的なカクテルドレスに変える演出を考案しました」
この記事は、10マガジン72号「DARE TO DREAM」からの抜粋です。
「Kinship Journeys」2003年秋冬コレクション PHOTOGRAPHY COURTESY OF GETTY IMAGES/WWD