ニューヨーク州サフォーク郡アマガンセットの浜辺に千鳥の群れが降り立つ、ある静かな夏の朝——28歳にして超人気アーティストのアナ・ウェイヤント(Anna Weyant)は、ベッドに潜り込もうとしていた。彼女はなにも、夜明けまでパーティーをしていたわけではない——実際、夜通しパーティーをすることもあるのだが——マラソンのようにハードな創作活動の疲れを癒そうとしていたのだ。浜辺にある仮のアトリエでウェイヤントは、約20時間ずっと絵を描いていた。暗闇という、彼女が愛情を込めて描くようになったモチーフを掘り下げていたのだ。
アナ・ウェイヤントが着用しているのは、プラダのセーターとパンツ、そしてシューズ
わずか5年前にプロのアーティストとして絵を描きはじめたカナダ出身のウェイヤントは、いまではアメリカでもっとも話題の若手アーティストのひとりとして名声をほしいままにしている。さらにウェイヤントの交際相手は、あのラリー・ガゴシアン(Larry Gagosian)——世界屈指の影響力を持つ78歳のギャラリストだ(上記の写真は、ガゴシアンの書斎で撮影された)。絶大な人気とアート界の超大物との交際は、ウェイヤントに間接的でありながらも重大な影響を与えた。2022年にウォール・ストリート・ジャーナル紙は、コンテンポラリーアートというよりも、初期ルネサンスや17世紀のオランダ黄金時代の絵画との類似性が感じられる具象的な作品を手がける彼女を「ミレニアル世代のボッティチェリ(Botticelli)」と絶賛した。また、人間の深層心理に迫った幽玄で孤独な瞑想ともいうべき「Summertime」という作品は、2020年に1万2000ドルで購入されたが、2022年には[オークションハウスの]クリスティーズにて150万ドルで落札された。同じ年の11月にニューヨークのガゴシアン・ギャラリー(Gagosian)で開催された初の個展「Baby, It Ain’t Over Till It’s Over」は大成功を収め、Instagramで一大センセーションを巻き起こしただけでなく、すべての作品が即座に完売した。オープニングパーティーには、2023年秋冬コレクションの制作にあたって彼女の真珠の絵にインスピレーションを得たデザイナーのマーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)や、ウェイヤントの“ミューズ”であるヴィーナス・ウィリアムズ(Venus Williams)とインフルエンサーのアイリーン・ケリー(Eileen Kelly)も駆けつけた。そのいっぽうで彼女は、恋人のコネのおかげだと散々批判され、女性蔑視的なバッシングにさらされてきた。「こういう人たちの言うことをすべて否定するわけではないけど……」。そう言って、ガゴシアンとの関係によって成功を疑問視され、外見によって作品を軽んじられてきたウェイヤントは言葉を詰まらせた。
(写真左)「Eileen in Red」2023年 油彩、キャンバス 61.3×51×2.9cm
(写真右)「Early Winter」2023年 油彩、キャンバス 61×45.7×2.7cm
「長い間、若い女性としてシリアスな感じの作品を描いていることが恥ずかしかった」と、ウェイヤントはアトリエのベッドからビデオ通話アプリを介して語った。「髪をブロンドに染めていることや、SNSを使っていることを世間に知られるのが恥ずかしかった」。そう言って、まるでネットドラマに夢中の大学生のようにノートパソコンを抱きしめた。ほんのりとした光が彼女の横顔を照らす。それは、彼女がモデルたちを描くときに用いる、柔らかくてメランコリックな光と不気味なくらい似ていた。「本当の自分とアーティストとしての自分という、まったく別のふたつの世界を生きていた。でも、両者がぶつかり合ったらどうなるのかを試してみる覚悟を決めたの」
アメリカの名門美術大学、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの学士課程を修了後、中国杭州市の中国美術院への短期留学を経て、2018年にニューヨークに拠点を移したウェイヤントは、光と影の力学、とりわけ両者が身体の形に与える影響に心を奪われた。気持ちの面では人間の欠点に惹かれるが、目に見える欠点には興味がない。柔らかくてなめらかな曲線美や、陶器のように完璧な肌が特徴の童顔のヒロインは、いまでは彼女のトレードマークとして知られる。そんな彼女は、人間の心の底に潜む歪んだ本性——美しさが時間とともに腐敗へと変わり、露骨さが喜劇へと変化する、人間の闇の側面に強い関心を抱いている。それは彼女のもっとも繊細な静物画にも現れている。駆け出しの頃は、漠とした暗闇の世界に見知らぬ人を引き込むことにためらいを感じたため、自画像ばかりを描いていたという。だが、やがて自分以外の人間を描くようになった。モデルのそばに座り、何時間または何日もかけて、親密な雰囲気の中で絵を描き続けた。制作中は、モデルに挑発的なしぐさや際どいポーズを依頼することも多々あった。それでもウェイヤントは、性的な眼差しにも、欲望につきまとう複雑な緊張感にも関心がない。「私は、絵の中の人物を観た人が魅力を感じるいっぽうで、不快感を抱いてほしいと思っている。直線は一本もないし、描いているうちに訳がわからなくなることもある。要するに[私のモデルは]、複雑な生き物なの」
「Disaster, Such a Catastrophe」2022年 油彩、キャンバス 92.1×122.2×3.2cm
ウェイヤントの作品は、ジョン・カリン(John Currin)のシニカルな作品や、17世紀に活躍したフランス・ハルス(Frans Hals)やユディト・レイステル(Judith Leyster)といったオランダ人画家の作品と比較されることが多いが、作品全体を見渡してみると、思春期の重荷が暗い影を落としていることがわかる。ソフィア・コッポラ監督(Sofia Coppola)の『マリー・アントワネット』(2006)のように、あふれんばかりのアナクロニズムとともに、歪められたおとぎ話に対する賞賛と拒絶が同居しているのだ。ウェイヤント自身も、アーティストとしての自分と作品が分断されていること、そして自身に与えられた特権を十分理解している。2023年10月にパリのガゴシアン・ギャラリーで開催された個展「Life After Power」では、歴代大統領の引退後の人生に関する暗喩を展開すると同時に、一躍アートシーンの寵児に躍り出た自身の道のりをアイロニックに振り返る。
「もうすぐ30歳なの——30って、なんだかすごく重大な響きがあるよね」と、ウェイヤントはパリでの個展を前に語った。121.9×91.4cmの作品が数点披露される予定の「Life After Power」は、彼女にとって記念すべきヨーロッパデビュー展となった。ウェイヤント自身は、静物油彩と具象的な作品を織り交ぜた本展は、「Baby, It Ain’t Over Till It’s Over」の続編的なものだと考えている——とはいっても、未定の部分はまだまだある[訳注:その後、個展名を「The Guitar Man」と改め、6点の新作を発表した]。「短い間に、ハイになるようなことをたくさん経験した」と、いまだに自身の成功にとまどいながら彼女は語り、さらに続けた。「個展のタイトル[Life After Power=権力を得たあとの人生]自体がジョークなんだけど、本当は将来自分がどうなるのかを本気で考えている。これからも絵を描き続けることは確かだけど、私は今後、どこで誰を描くことになるんだろう」
「Quicksand Roses」油彩、キャンバス 76.2×61.6×2.5cm
本展と時を同じくして、『ANNA WEYANT』という初のモノグラフも刊行予定だ。そんな彼女は、自分でも暗闇の世界に寄りすぎたと感じたことがあったという。それはパンデミックの真っただ中のことだった。自分をモデルに、テーブルの上に頭をのせてじっとしている若い女性の絵を描いたのだ。髪が波を打つように広がるなか、横顔にかかった髪の束を肉切り包丁がばっさりと切り落としている、という絵だった。「当時は、とても深い闇の中にいた。自分だけど、自分じゃないこの娘がかわいそうで仕方がなかった」。本当の自分とアーティストとしての自分——そのときは、まだどちらかを選ぶ覚悟ができていなかったという。「結局、その絵は捨ててしまった。ときには幸せを選ぶことも大事だから」
Portrait by Christopher Currence. © Anna Weyant. Photograph Rob McKeever; courtesy Gagosian.
US版10 Magazine 1号「FASHION, ICON, DEVOTEE」掲載記事
「Still Life with Fruit and Vase」2023年 油彩、キャンバス 50.8×61.4×2.9cm
「Pearl Bracelet」2021年 油彩、キャンバス 15.2×15.6×2.5cm