平和と挑発の象徴、オノ・ヨーコのアートの世界


Shoko Natori

ロンドンのテート・モダンに続き、928日からドイツ・デュッセルドルフのノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館でも「ヨーコ・オノ:ミュージック・オブ・ザ・マインド」と題したヨーコ・オノの70年のキャリアの大規模回顧展が開催されている。いまなぜ彼女の作品がこれだけ注目を集めるのか。キュレーターでライターのショナー・マーシャルがヨーコ・オノの作品を振り返りながら解説する。

ピーター・ジャクソン監督は、ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ:Get Back』(2021年)を手がけるにあたり、ビートルズのアルバム『レット・イット・ビー』(1970年)のレコーディングセッションの様子を収めた60時間もの未発表映像へのアクセスを認められた。当然ながら、本作の主役は〝ファブ・フォー〞と称えられたジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人なのだが、彼らと一緒に画面のなかに収まっている人物がいることにお気づきだろうか。その存在感は慎ましいながらも、常に感じられる。その人物とは、当時36歳のヨーコ・オノである。あるときは全身黒ずくめで、またあるときは白一色に身を包んだオノは、4人がレコーディングを行うかたわら、ビートルズのファンマガジンを読んだり、縫い物をしたり、お菓子を食べたりしている。

ニューヨーク・タイムズ紙が公開した「The Sublime Spectacle of Yoko Ono Disrupting the Beatles(ビートルズをディスラプトする、ヨーコ・オノの崇高なるスペクタクル)」という記事において著者のアマンダ・ヘスは、「私はテレビの前で、どうして彼女がここにいるの? と繰り返さずにはいられなかった」と、画面が映し出す光景に当初は苛立ちを覚えたと綴った。だが、映画が進むにつれてヘスは、オノの挑戦的な態度に心を動かされ、ひとりの女性として、オノに敬意を抱くようになった。さらにヘスは「彼女のスタミナに感心し、あたかも挑発しているような態度に驚嘆し、最終的にはそのパフォーマンスに魅了されていた」とも記している。世界でもっとも有名なバンドが崩壊しかけては立ち直り、最後のアルバムとなった『レット・イット・ビー』と『アビイ・ロード』(1969年)に足りるだけのヒット曲を作る間、ヘスは「何もせずに座っているだけのオノから目が離せなかった」という。

1997年、インタラクティブアートインスタレーション「ウィッシュ・ツリー」とヨーコ・オノ。 PHOTO BY MIGUEL ANGEL VALERO (COURTESY OF YOKO ONO)

当時すでにコンテンポラリーアーティストとして成功していたオノは、このとき何らかのパフォーマンスを上演していたのだろうか。いつの時代も女性は、男たちのなかで自身の真価を見せないといけない、という状況に度々置かれてきた。オノは、まさにそうした状況を象徴していた。だが、時おりマイクに向かって叫び声をあげるときを除いてオノの意識は自身の心のなかへと向かう。強い影響力をもつ男たちに囲まれながらも、自分ひとりで十分と言わんばかりに、ひとりの世界に充足しているのだ──それも内なる平和を体現しながら。『ザ・ビートルズ:Get Back』は、侵入者ないし妨害者、レノンに悪影響を与える存在、スタジオの邪魔者という、多くの人が抱いてきた女性差別的なオノのイメージを覆してくれる。本作を観る限り、彼女がそうした存在とは無縁だったことは明白である。平凡なものから詩的なものまで、日常にあるものを使う独創的で博学なアーティストであるオノの作品はとらえにくくも超越的で、観る人の心にじわじわと入り込んでくる。最初は気づかないが、その影響は徐々に感じられると同時に、まばたきによって消えてしまうくらい繊細である。

オノの作品を観ていると、その内なる英知にハッとさせられずにはいられない。Twitter(現X)のようなものでさえ、オノの手にかかればアートを表現するための手段となる。たとえば彼女は、「まずは自分からはじめましょう。愛してる、きみを許す、きみのすべてを受け入れる、と繰り返し自分に言ってあげてください」と投稿した。別の投稿では「自分が穏やかさを感じていれば、世界がすでに穏やかであることに気づくでしょう。穏やかさを感じられなければ、平和を見出すことはできません」と言っている。オノは、半世紀以上にわたって私たちに「平和な世界を想像してごらん」というメッセージを発信し続けてきたのだ。過熱報道やレノンと手がけた巨大な反戦広告から遠く離れ、彼女は人々が静けさに満ちた内なる平和、というシンプルなものを求めることを願っている。

ニューヨークにてマシュー・プラセックが撮影したポートレート。 © YOKO ONO

私たち欧米人は、内なる平和という概念がどうも苦手である。どこの書店にも自己受容に関する書籍を取り扱うコーナーがあるのは、そうしたことを見事に物語っている。私たちは自己肯定感を必死に追い求めるあまり、真っ暗な穴のなかに落ちてしまったのだろうか──その穴が最初からそこにあったかどうかは別として。そうしたなかでオノは、現代社会という嵐のなかを進む私たちの“港”のような存在になった。哲学者のスティーブン・ピンカーは、著書『暴力の人類史』(2011年)において現代を「人類史上もっとも平和な時代」と表現しているが、私たちのスマホに絶え間なく流れ込んでくる人為的な荒廃と破壊の映像や動画を見ていると、平和というよりは対立と戦争の真っただ中を生きているようにしか思えない。

こうして見てみると、ロンドンのテート・モダンが「ヨーコ・オノ:ミュージック・オブ・ザ・マインド」と題した大規模回顧展(会期:2月15日〜9月1日)を開催したのも、ごく自然なことなのだ。ガーディアン紙に本展のレビューを寄稿したローラ・カミングは、「War Is Over……If You Want It(戦争は終わった……きみが望めば)」と、記事のなかであの有名な言葉を繰り返した。そこには、この言葉が実現する可能性はきわめて低いだろう、という深い悲しみが込められている。それでも現在91歳のオノは希望を捨てず、平和を諦めないでほしいという想いを胸に創作活動を続けている。本展は928日からドイツ・デュッセルドルフのノルトライン・ヴェストファーレン州立美術館にも巡回するが、共同キュレーターのパトリツィア・ダンダーは「政治的な混乱が続くなか、平和を求めるヨーコ・オノのメッセージは、かつてないほどの重要性をもっています。平和は力なのです」とコメントした。

「イマジン・ピース」(ロンドン)。 PHOTO BY TETSURO HAMADA © YOKO ONO

オノが平和活動をはじめたのは1960年代のこと。ベトナム戦争が熾烈さを増すなか、オノは戦争の終結を願い、平和を呼びかける作品を発表した。だが、それ以前はどちらかというと内的なアプローチをとるアーティストであった。1964年に刊行されたアート書籍『グレープフルーツ・ブック(原題:Grapefruit)』においてオノは、「スコア」というものを取り入れた。それは読者自身に行動することを求める指示書のようなもので、「雲が滴り落ちているのを想像して。雲を埋めるための穴を家の庭に掘ってあげましょう」や「地球が回る音に耳を傾けて」「どこでもいいから、体の好きなところに包帯を巻いて。誰かに聞かれたら、物語を作って語ってあげて。誰も聞いてくれないのなら、気を引いて物語を語って。世間があなたの物語を忘れてしまったら、思い出させて、語り続けて。それ以外のことは話してはいけません」といった文章が綴られている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のドローイング・版画部門のチーフ・キュレーターを務めるクリストフ・シェリックスは、「本書を通じてオノは、オーディエンスとの新しい関係性を構築しました。それは作品を所有するのではなく、作品の一部となること、ひいては頭のなかで行動に移すことをうながす、よりダイレクトなアプローチだったのです」と語った。さらにオノは、1950年代初頭にニューヨーク州北部のサラ・ローレンス大学の学生だった頃にこれらの作品を書いた、と1971年にヴォーグ誌に語り、「自分のために。自分を救うために。それは一種のセラピーでした」と明かした。

「イマジン・ピース」(ベルリン)。 PHOTO BY TETSURO HAMADA © YOKO ONO

「イマジン・ピース」(ソウル)。 PHOTO BY TETSURO HAMADA © YOKO ONO

1933年に東京で生まれたオノ(本名:小野洋子)は、1953年に父の赴任先のニューヨークに移住し、音楽と詩を学ぶためにサラ・ローレンス大学に入学。在学中に若き作曲家の一柳慧と出会い、結婚した。オノの家庭は裕福だった。父(日本興業銀行元総裁の三男)は元ピアニストの銀行員で、母は財閥の家系だった(母親の祖父は安田財閥を築いた安田善次郎)。生活には何ひとつ不自由せず、幼い頃からニューヨークと東京を行き来していた。だが、第二次世界大戦の勃発とともにすべてが変わった。19453月の東京大空襲によって街は焦土と化し、約100万人が家を失ったのだ。オノは家族と疎開したが、疎開先には十分な食料がなく、一家は飢えに苦しんだ。この間、オノの父はフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)の捕虜収容所に収容されていた。

こうした辛い経験は、オノの成長に決定的な影響を与えた。彼女の想像力は、この時期に育まれたと言っても過言ではないだろう。ジャーナリストのショーン・オヘイガンがガーディアン紙の2013年のインタビューで「最初に創った芸術作品は何か」と尋ねると、オノは次のように答えた。「疎開先で暮らしていたときのことです。弟は本当に不幸せそうで、塞ぎ込んでいました。食料もあまりなかったので、お腹も空かせていました。そこで私が『一緒に献立を考えましょう。夕食は何がいい?』と尋ねると、弟は『アイスクリーム』と答えました。私が『いいわね。アイスクリームの夕食を一緒に想像しましょう』と言うと、弟はとても嬉しそうな表情を浮かべたのです。そのとき私は、想像するだけで人は幸せになれることに気づきました」

『グレープフルーツ・ブック』は、想像力のマニフェストとも解釈できる。本書を通じてオノは、新しい発想を生むための余白を頭のなかに作ることの大切さを説いているのだ。2022年にアメリカ・ミズーリ州セントルイスにあるピューリッツァー美術館は、「Assembly Required(要組み立て)」と銘打ったエキシビション(『グレープフルーツ・ブック』に対するオノと来場者の反応を記した80ほどのスコアが展示された)の一環として、オノのスコアを実際に行動に移してみる、という一連のワークショップを開催した。イベントを主催したジョシュア・ペダー・ストゥーレンは、「私たちは、子どもの頃は頭のなかに想像するための余白を作り、問いかけることで自身の世界のとらえ方を確認します。そうすることであらゆる可能性を認め、現実から自由になるのです。しかし、そうした感覚は成長とともに失われてしまいます」と語った。

2007年「イマジン・ピース・タワー」(アイスランド・レイキャヴィーク沖合)。 PHOTO BY TETSURO HAMADA © YOKO ONO

1950年代後半、芸術制作におけるこうしたアプローチはまだまだ新しいものだった。それでもオノはニューヨークのダウンタウンで志を同じくする仲間たちと出会い、「フルクサス」という前衛芸術運動に加わった。フルクサスとは、リトアニア出身のアーティスト、ジョージ・マチューナスの呼びかけによって誕生したアーティストたちの集団ないしネットワークで、ダダイズムに影響を強く受けていた。完成品よりもその創作プロセスを重要視する実験的なアートパフォーマンスを行うフルクサスは、揺籃期にあった現代アートムーブメントの最前線をいく存在だった。その一員となったオノは、一柳と暮らしていたチェンバーズ・ストリートのロフトでコンサートを主催したり、自身の作品を披露したりした。

オノは、1964年に京都で初上演された「カット・ピース」という先駆的なパフォーマンスアートによって一躍脚光を浴びた。これはステージの上にスーツを着たオノがハサミを片手に座り、オーディエンスはそのハサミを使ってオノの服を少しずつ切り取っていくというもので、最終的には裸に近い状態のオノがステージに残される。「カット・ピース」は、女性の身体に対する暴力を表現していた。初めてこの作品を披露した際、「力と脅しの空気が漂っていました。観客は言葉を失い、沈黙していました。ですが、『カット・ピース』は世界平和への希望なのです」と、オノは40年近く経ってからパリでこの作品を再上演した際に語った。この時期のオノの作品の重要性に気づいたシェリックスは、こうした作品を集めた展覧会「ヨーコ・オノ:ワン・ウーマン・ショー 1960-1971」を2015年にMoMAで開催した。これについてシェリックスは、「オノの作品が同時代のアーティストのみならず、次の世代のアーティストにもどれだけ強い影響を与えたのかを示すことが急務のように感じられました。そこで(MoMAの元キュレーターの) クラウス・ビーゼンバッハとともにオノの最初の10年間の作品に焦点を絞ることにしたのです。これらの作品は、世間ではあまり知られていませんでしたが、計り知れないほどの歴史的価値を備えていましたから」と語っている。

1964年、「カット・ピース」。ステージ上スーツを着たオノが座り、オーディエンスがハサミを使って少しずつオノの服を切り取っていく先駆的なパフォーマンスアート。 PHOTO BY MINORU NIIZUMA © YOKO ONO

想像と平和というテーマは、当初からオノの作品の根底に流れていた。1962年に一柳と離婚し、アメリカの映像作家アンソニー(トニー)・コックスと婚姻関係にあったオノは、1966年にロンドンのインディカ・ギャラリーでジョン・レノンと出会った。のちにレノンは、そこで展示されていたオノの作品「Ceiling Painting/Yes Painting(天井の絵)」のポジティブなエネルギーに圧倒されたと回想している。それは部屋の真ん中に置かれた梯子をのぼり、天井からぶら下がる虫眼鏡でのぞくと小さな文字で「YES」と書いてある、という作品だった。

ふたりは交際をはじめ、1969年に結婚した。レノンの妻として一躍時の人となったオノの作品は、それまでは彼女の作品に興味を示さなかった人々にも知られるようになった。レノンとオノは、新婚旅行で訪れたアムステルダムとモントリオールのホテルで「ベッド・イン」と題した平和のためのパフォーマンスを行い、終わりの見えないベトナム戦争に抗議した。座り込みといった非暴力的な抗議活動からヒントを得たふたりはホテルの寝室にジャーナリストたちを招待し、平和について議論した。1970年には巨大広告やポスター、ラジオCM、ポストカードを使ったマルチメディアキャンペーンに打って出、「War Is Over! If You Want It. Love and Peace from John & Yoko」というメッセージを発信するかたわら、「イマジン」を共作した。この曲の歌詞は『グレープフルーツ・ブック』から着想を得たといわれている。当時のオノについて評論家のリンジー・ゾラッズは、2015年に米隔週刊誌『ニューヨーク・マガジン』に次のように寄稿した。「オノの芸術は、前衛の枠を超えたことで命を与えられました。オノには、チェンバーズ・ストリートのロフトで起きていることに詳しいクールなアート好きだけでなく、すべての人の心のなかに眠る芸術家を呼び覚ますという使命があったからです」

1966年、「Ceiling Painting/Yes Painting(天井の絵)」。来場者は、部屋の真ん中に置かれた梯子をのぼり、天井からぶら下がる虫眼鏡でのぞくと小さな文字で「YES」と書いてある文字を読むという作品。 PHOTO BY IAIN MACMILLAN © YOKO ONO

マサチューセッツ大学アマースト校の心理学部および「平和と暴力の心理学プログラム」創設者兼ディレクターのエルヴィン・スタウブ名誉教授は、オノの作品は人々に集団として平和を想像することを呼びかけていると解説し、次のように続けた。「平和がもっとも有用なときにそれを想像するには、特殊な方法が必要です。それは平和が人々の行動に与える影響について考えることであり、ほかの集団との交流方法について思いを巡らせることでもあります。さらには、思い描く平和を実現させるためにはどうしたらいいか、と具体的に考えることでもあります。要するにそれは、平和を求める能動的な傍観者になるために通るなのです」

私は、オノの作品の多くがオーディエンスの参加を求めていることに心を動かされる。テート・モダンの回顧展を訪れた際は、「Painting to Hammer a Nail」という作品の指示に従い、ハンマーを使って白い板に釘を打ち込んだ。作品を見つめるうちに、心のなかに怒りが込み上げてきたのを覚えている。それは不正や家父長制度といった、この世のありとあらゆる〝悪〞に対する怒りだった。ハンマーを使って釘を打ち込むうちに、それまでは心のなかにしまわれていた感情があふれ出したのだ。本展の共同キュレーターであるダンダーは、実際に釘を打った瞬間に「こんなに小さなしぐさが大きな影響を与えることに驚いた」と語った。オノの作品は、平和を具体的に想像してごらん、と呼びかける代わりに、通常は商品の宣伝に使われる手法で訴えてくる。そうした行為そのものが反体制的であり、オーディエンスをまったく新しい思考の枠組みへと誘うのだ。2012年にニューヨークのタイムズスクエアを舞台にオノのインスタレーション「イマジン・ピース」を主催したアート・プロダクション・ファンドのオペレーション・ディレクターを務めるキャスリーン・リンチは、次のように語る。

「私たちは、公共の場でアート作品を目にするとは思っていません。だからこそ、帰宅途中や通勤中にアートと出会うことに大きな衝撃を受けるのです」。シェリックスも、こうした商業スペースを使うことは「世界を変えるには美術館もギャラリーも出版社も必要ない、というオノの初期の信念を発信することでもある」と指摘する。確かに、資本主義の象徴ともいうべきタイムズスクエアのような場所で「平和な世界を想像してごらん」と訴えるのは、ディスラプティブな行為である。資本主義の本質は現状を維持することであり、それ以外のことを想像する余地を許さないのだから。

だからこそ、平和な世界を想像しようではないか。あなたにとっての平和な世界とは、どんな世界だろう。それは誰かと距離を置くこと、あるいはもがきながら自分を受け入れることのようなミクロなものだろうか。それとも、世界で起きている紛争が終わりますように、世界平和が訪れますように、といったマクロなものだろうか。スタウブ教授は「平和とは、政治的ないし心理的、人種的、集団的な分断を超えて手を差し伸べる行為です」と言い、さらに続けた。「平和な世界を想像することはきわめて困難です。アメリカは激しい分断にさいなまれていますから。そのいっぽうで、平和な世界を想像することは他者を招き入れて共に平和な世界を思い描き、それについて語り合い、可能であれば、少しでもそれを実現できるような行動を共に起こすことでもあります。また、他者への愛を想像することでもあります。いずれにしても、平和を想像し、平和のために行動することは、国境を超えなければいけません……それは今日のような冷たい平和ではなく、対立の少ない、温かみのある平和であるべきなのです」

「イマジン・ピース」(上から、ウェスト・ハリウッド、ロンドン、ニューヨーク、テキサス州立ギャラリー)。 © TEXAS STATE GALLERIES PHOTO BY REBECCA MARINO (COURTESY OF CREATIVE TIME)

平和な世界を想像できないと感じている人のために、オノは手を差し伸べてくれる。Twitter(現X)の約450万人のフォロワーにいまもメッセージを発信し続ける彼女は「扉は、一回のノックでは開かない。辛抱強くありなさい」と投稿した。私はこの記事を書きながら、オノのもっともラディカルな行為とは、私たちに穏やかであれ、と説き続けたことではないだろうかと思いはじめた。それは集団として平和を望むことなのだが、まずはひとりひとりがそうしなければならない。ダンダーは、「ヨーコ・オノ:ミュージック・オブ・ザ・マインド」の来場者には「オノの作品が放つ寛大さとウィット、そして愛」を感じ取ってほしいと語る。

〈上〉1971年、MoMAで非公式のパフォーマンスを行ったときの写真。 PHOTO BY IVOR MACMILLAN © YOKO ONO

ピューリッツァー美術館にて『グレープフルーツ・ブック』に関するイベントを主催したストゥーレンは、展示されたスコアについて「私たちは、まるで貴重なオブジェのように額に収められ、ギャラリーの壁に飾られた小さなスコアを見て『これは私のために書かれたものではない』と思うかもしれません。でも、スコアに書かれていることを17人が同時に3回繰り返すことで、『これは私のためのものだ。こんなに簡単に交流できるアート作品には、いままで出会ったことがない』と気づくのです」と語り、次のように続けた。「集団として平和な世界を想像することは壮大すぎて難しい、と誰もが思うでしょう。ですが、自分が暮らしている地域や自宅の庭の平和を想像してごらん、と言われたらどうでしょう。それならできそうだ、という気がしてくるのではないでしょうか」

〈下〉ヨーコ・オノとジョン・レノンによるモントリオールのホテルで「ベッド・イン」と題した平和のためのパフォーマンス。 PHOTO BY IVOR MACMILLAN © YOKO ONO

Text SHONAGH MARSHALL Translator SHOKO NATORI

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